教育方針 of 東京朝鮮中高級学校

東京朝鮮中高級学校

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民族自主意識と民族的素養、知・徳・体をかねそなえた人材、祖     
    国と民族、胞社会の発展のために寄与し、日本や国際社
    会で活躍できる人材の育成をめざしす。

朝鮮の歴史や文 化、言語などの民族科目と日本や世界各国の社
    会と自然、代社会や外国語など大学進学や就職をはじめ、
    日本で生活し活動するうえで必要資質の向上につとめます。


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東京朝鮮中高級学校創立70周年を機に学校創立当初からの歩みを沿革史として整理しました。


在日朝鮮人中等教育の始まり

草創期の東京朝鮮中高級学校


東京朝鮮中高級学校は今年創立70周年を迎える。(2016年当時)

 東京朝鮮中高級学校は日本の植民地下で奪われた言葉と文字を取り戻すため、愛国的な1世たちが再び植民地の民になることを決して繰り返さないとの切なる思いを込め、1946年10月5日創立された。

本校は在日朝鮮人初の中等教育機関として開校し、この70年間に高級部2万2千人、中級部8千人の卒業生を送り出した。本校卒業生たちは祖国の発展と在日朝鮮人運動の担い手として貢献し、過去もそして現在も同胞たちが生活する地域で睦まじく豊かな同胞社会を築く上でに中心的な役割を果たしている。



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  校舎全景



 異国の地において主体性と朝鮮人としての民族性を備えた有能な人材を育成してきた70年間の道のりには、敬愛する金日成主席と金正日総書記の温かい配慮と共に、前人未踏の道を切り開いてきた在日1世、その業績を継承し発展させた2世・3世の血と汗、崇高な愛族愛国の志が刻まれている。

 東京朝鮮中高級学校創立50周年を間近に控えた1996年5月、故韓徳銖総聯中央議長は本校を訪れ次のように述べた。

 「東京中高の50年はまさに在日同胞の中等教育実施50年の歴史であり、在日朝鮮人運動の誇らしい50年の歴史である。もし東京中高が創立されなければ今日の総連のすべての分野で、祖国と民族のために活動する有能な人材を育てることは出来なかったであろう。」

 我々は本校創立70周年を契機に教育の質をたゆみなく向上させ、同胞たちの志向やニーズに合わせて学校教育をさらに充実させ、「生徒たちの入学したい学校」、父母たちが「自分の子どもたちを送りたい」魅力ある学校に発展させていく決意にあふれている。全教職員は生徒たちに民族自主意識と民族的素養、正しい歴史認識と科学知識を教え、豊かな人間性と健全な肉体を持ち、同胞社会を守り、日本と国際社会で活躍する人材をより多く育て行く所存である。



 在日民族教育の始まりー「国語講習所」


 在日同胞たちは解放直後、新たな祖国建設の夢を抱き父母兄弟が待つ故郷への帰還を急いだ。帰国を控え「皇国臣民化」教育により母国の言葉と文字、歴史や地理を知らない子供たちに朝鮮の言葉と文字を教えることは緊急な課題であった。

 このような同胞たちの切実な要求に応えるべく祖国解放直後、同胞たちが生活する至る所に「国語講習所」が設置され、在日朝鮮人連盟(朝連)結成(1945.11.15)後はその指導の下で急速に増加した。


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朝鮮人連盟役員(写真前列右から4番目が尹槿委員長)


 東京では、1945年10月新宿淀橋で「戸塚ハングル学院」、三河島の「荒川朝鮮語講習会」、板橋の「板橋朝鮮語講習所」等23か所で国語講習所が開講され1946年3月の時点で1700余名が朝鮮語を習っていた。

 「戸塚ハングル学院」では、李珍珪(前総聯中央第1副議長) が講師となり国語を教え、彼が執筆・印刷した「ハングル教本」は、日本各地のハングル学院で教材として使用された。足立では後に朝鮮中学校の校長になる林光徹が「足立国語講習所」で教え、「荒川朝鮮語講習会」では朝連荒川支部委員長であった宋奉玉(東京朝鮮第一初代校長)、朴静賢(元女性同盟中央委員長)、朴尚牛らが教えその後、金哲禹、金昌鉉(元東京朝鮮第一校長、総連中央教育局長)らが加わった。

 同胞たちは祖国への帰国を急いだが、1945年8月24日に帰郷する同胞3700人を乗せた「浮島丸」が舞鶴沖で爆沈するなど、日本当局の妨害で帰国はなかなか進まなかった。しかも南朝鮮では米軍が軍政を敷き、政治の混乱と社会不安が日を追うごとに増していった。こういった状況の中、帰国したにも関わらず、故郷に住むことも出来ず日本に戻らざるを得ない境遇の人々も多く、同胞たちは帰国できるめどが立つまでやむを得ず日本に滞在することを余儀なくされた。

 このような状況は日本の地で正規の学校をつくり民族教育を実施することを現実問題として提起したのであった。



 朝連学院と教科書編纂


 1946年1月、朝連は第1回全国文化部長会を招集し、子供たちにに母国語での初等教育をすることを決定した。国語講習所は1946年4月から初級、中級、上級の3年制の初等学院として統合整備し、名称も「○○朝連初等学院」と統一された。その年9月には6年制の正規の学校に再統合され、国語、歴史、地理、算数、体育、音楽などの科目を中心とした授業が実施された。 

 こうして東京では国語講習所で学ぶ3400人以上の受講生たちが22か所の朝連学院で学ぶことになった。

 正規の教育体系を確立した朝連初等学院では全科目の教材作成が急務の課題として提起された。経験もなくこれといった参考資料もない中、1946年2月、在日朝鮮人民族教育において最初の教科書編纂委員会が発足した。

 編纂委員は国語;李珍珪、朴煕成、算数;金尚起、金京煥、蔡洙鋼、理科;朴俊栄、任煐準、歴史;林光徹、地理;李殷直、魚塘、音楽;尹紀善、韓春愚、図画;朴盛浩、李仁洙、公民;李相尭の15人であった。




教科書編纂委員会.png


  教科書編纂委員会




朝連文教部が出版した教科書.png

  朝連文教部が出版した教科書


正規教育体系である初等学院が開設され、民族教育の継承性を保証する朝鮮中学校の設立は、焦眉の急であった。この要求を最も敏感に捉えたのは東京都内の国語講習所の教員たちであった。彼らは1946年4月、国語講習所が3年制初等学院に再編成されたことをきっかけに、中学校の設立問題を朝連東京都文化部に提起した。

その頃、在日朝鮮人連盟中央総本部(朝連中総)の文化部でも「朝鮮中学校を創立すべき」との意見が多く朝連中総で論議されることとなった。当時朝連中総は新宿の朝鮮奨学会の建物から、新橋にあった解放前「朝鮮総督府」東京出張所の建物に移った直後だった。

このように中学校設立問題が持ち上がったものの、当時朝連活動の中心は同胞たちの帰国支援であった。 さらに同胞の意識の中にも「在日朝鮮人が小学校を運営するのも大変なのに中学校なんてとても」という考えがあった。それは一部朝連幹部の考えでもあった。

このような学校運営のおける民族虚無主義的傾向は長い間克服されず、また中学校設立を積極的に後押しする人も無い中、朝鮮中学校設立問題は、何回か論議されるもうやむやになってしまった。

東京で朝鮮人中学校設立が朝連の方針として具体的な形を表したのは、朝連中総文化部が文化教育局にかわり、韓徳銖青年局長が文化教育局長に就任した以後であった。



東京朝鮮中学 建設期成会


1946年6月1日、朝連は全国30か所の朝連本部文化部長を招集し、第2回全国文化部長会議を行った。

会議では、朝連東京文化部代表の問題提起により東京都内の朝鮮人中学校、または夜間中学校を設立する問題が討議されていた。討議内容は朝連中総に報告され、朝連東京都本部は東京朝鮮中学校設立問題を具体的に協議した。その後東京都内朝連支部委員長有志懇談会が開かれた。有志懇談会形式にしたのは中学校設立に消極的な委員長が多かったので中学校の設立に積極的な委員長を中心に会議を行わざるを得なかったためである。

当時東京で朝鮮人中学校の設立問題に積極的な関心を持っていた朝連支部は、荒川、足立、深川、板橋などの支部であった。これらの朝連支部は例外なしに初等学院の運営に最も「教育熱心な支部」であった。

支部委員長懇談会は朝鮮人中学校の設立を積極的に支持した。しかし全体的にはまだ機運は熟していなかった。

朝連中総文化教育局と東京本部が中心となり、複数回にわたり行われた有志懇談会では学校建設資金について集中的に協議された。有志懇談会では資金の問題を解決するため「有力者」の協力を得ることが決議された。

8月1日に中学校設立のための第1回準備委員会が朝連文化部で行われ、8月18日に「東京朝鮮中学校設立期成会」が発足した。期成会は、教務 (教員確保、教科書編纂)、設備 (学校設備)、基金 (財源確保) の3つの分科で構成され、期成会長には孫芳鉉に決まった。彼は1925年に日本に渡ってきた朝連中総顧問であった

建設期成会は朝鮮人中学校設立の主旨を次のように指摘した。

「我々は独立した朝鮮人として、1日も早く民族の言葉や文字を取り戻し虐げられた朝鮮の文化を再建するために全国で初等学院を設立し、私たちの教育を開始した。

当初は1日も早く帰国して祖国の建設に貢献する考えであった。しかし、今日諸般の情勢は早急な帰国を許さず、日本に生活の根拠を置く同胞も少なくないために、同胞子弟の教育は切迫した問題になった。

従ってここに我々の中学校を設立することを訴えるものである。」


開校準備は大きな困難の中で行われた。

朝連中総文化教育局と期成会は関東地方の同胞たちを招待して、東京朝鮮中学校建設準備のための懇談会を9月5日東京目黒にある雅叙園で行い、その数日後、学校建設資金を集めるための説明会を上野精養軒で行った。この集いに約100人が集まり学校建設資金として170万円が記帳された。

このような雰囲気のなかで「東京で朝鮮中学が開校される」という噂は広がり、開校を願う生徒、同胞の声はますます大きくなっていった。記帳された募金を集めることは後にしても、すぐにでも中学を開校しなければならなかった。

当時在日同胞たちには財産と呼べるものも無く、一定の収入がある仕事を持っている人も多くなかった。中学校を運営した経験も、準備された教員も、必要な物資も無かった。「初等学院でも大変なのに」と中学校設立に消極的な意見を持つ同胞も少なくなかった。実際、学校を立てる敷地も校舎も無かった。

しかし祖国の未来を背負う人材を育成するために同胞たちと朝連の活動家たちは、度重なる困難を1つ1つ乗り越え朝鮮中学開校を急いだ。

しかし東京朝鮮中学校期成会は東京都庁と交渉し、戦災地の焼跡の建物を借りて校舎として使うなど、消極的な態度に終始していた。

時間は流れて行った.朝連中総文化教育局の人々は焦燥感に駆られていた。祖国の新学年度に合わせた9月の開校計画につまずきが生じていたのである。



東京朝鮮中学校の敷地を確定 (旧日本軍の兵器廠に行く)


このような時であった。朝連板橋支部尹徳昆委員長が朝連中総に韓徳銖文化教育局長を訪ねたのは。

尹徳昆委員長は朝連初等学院の運営に人一倍情熱を持ち、国家と民族が繁栄するには、教育をしっかりしなければならないとの持論を持っていた。

彼は校舎として使える建物が無いか探しまわり、板橋区役所に「校舎を斡旋してほしい」と何度も要請を繰り返した。彼は同胞の生活の問題や帰国問題など、区役所に足しげく訪ねていたので、区長や助役など区役所職員たちと顔なじみになっていた。

そんなある日、区役所の職員から朗報が舞い込んできた。以前日本軍の兵器廠として使われていた土地があるという話であった。それを聞くや否や、尹委員長は区長との度重なる交渉を行った。その土地は大蔵省の管轄下にあったが、日本の敗戦後東京都に移管され東京都が管理を所在地の板橋区に任せた状態であった。板橋区は土地の使用許諾についても委任を受けていた。そして交渉の結果、朝鮮中学校の敷地に使うことが出来るようになったのである。

校地、校舎の問題が解決せず頭を痛めていた韓徳銖文化教育局長は尹徳昆委員長から板橋区長との交渉経過を聞き、あまりの嬉しさに尹委員長の手をかたく握った。どれだけ有難いことだったか。







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 朝連板橋支部尹徳昆委員長



韓徳銖文化教育局長と何人かの文教局のメンバーが尹徳昆委員長に連れられ現地に向かった。朝連板橋支部の人々や青年同盟の若者たちが門の前で待っていた。その場所は省線電車十条駅の近くで上十条( 現在の学校の場所) にあった。入口の大きな門が雨風で灰色に変色していた。

 門を開き中に入った人々は期待とはあまりにかけ離れた光景に茫然とした。敷地は予想以上に広く樹木と雑草が茂った荒れ地であった。苔むした木造の火薬貯蔵庫の建物が数棟立っていた。所どころに深い水溜まりがあり敷地の奥には大きな山があった。

 人々はあまりにもひどい現場の様子に落胆し言葉も無かった。

 しかし、時間が無かった。ここより良い敷地を探せる見込みも無かった。少し手を加えれば何とか教室として使える建物が数棟あり、ここに決めざるを得なかった。

 「これらを全部使ってもいいのだろうか?」

 背丈を超える雑草をかき分け敷地内を回り終えた韓徳銖文教局長が尋ねた。彼の心には山が削られ、立派な校舎が建ち、広い運動場でスポーツに汗を流す生徒たちの元気な姿が浮かんでいた。

 「必要な広さだけ使ってよいとのことです。」尹委員長が答えた。

 「敷地が広いことが気に入った。立地条件もいいし…これからいくらでも良くすることが出来るじゃないか!」

 人々のやるせない気持ちを奮い立たせるような文教局長の大きな声だった。

 現地踏査後、尹委員長は板橋区牛田正憲区長や助役たちと度重なる交渉をした。

 尹委員長は彼らに日本の植民地下で朝鮮人を「徴兵」、「徴用」し炭鉱や軍需工場などで牛馬のように過酷な労働を強いたこと、「皇民化教育」や「創氏改名」を強要し、我々の言葉や文字、名前まで奪った世界に類例がない日本帝国主義の悪行を断罪した。

 尹委員長は、奪われた民族の言葉や文字を取り戻し、新しい朝鮮を建設する人材を育てるためには必ず中学校を必要とすること、朝鮮人に与えた罪を償うためにも無償で旧兵器廠の敷地を使用できるようにすべきだと強く要求した。

 板橋区長は関東財務局に旧兵器廠跡を朝鮮中学の敷地として使用できるように要請した。関東財務局王子出張所は尹委員長が提出した「雑種財産一時使用認可申請」を 1946年9月20日受理し、「建物使用許可」を承認した。

このとき、土地使用料の契約は校舎の建設が開始された後に正式にすることになっていたが、「都立に移管」されるまでの間と「都立時代」は、土地を無償で使用した。「都立」の看板をおろし東京朝鮮中高級学校として再出発した1955年4月、東京朝鮮学園は関東財務局東京財務事務所と賃貸契約を結んだ。土地の使用料は1年間で139万1千円であった。




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  土地使用申請書 1946.9.26



建物使用承認書1946920.jpg


  建物使用承認書 1946.9.20




学校設置認可書に添付された校舎配置図1946114.jpg


  学校設置認可書に添付された校舎配置図 1946.11.4

 生徒募集および入学試験


 生徒募集は9月中旬から開始された。まだ校舎の準備もできず机、イス、黒板など教具も揃っていない状況で学校を始めることが出来るのかと心配する人たちもいたが、これ以上遅らせることは出来なかった。

 東京本部や朝連中総には「いつ中学校が出来るのか?」と同胞たちの催促が相次ぐ中、朝連文教局は祖国の新学年度開始に合わせ9月中に開校するための準備を進めた。生徒募集要項と入学願書をつくり、朝連の各本部と都内の支部、初等学院に送付した。

 募集締め切りまでわずか10日間しかなかったが、入学試験当日までに300人以上の生徒が願書を提出した。入学試験は、朝連中総(新橋にあった旧「朝鮮総督府」東京出張所)文教局の事務室で実施された。朝連初等学院の生徒たちが教員に引率され集まって来た。女子生徒の中にはチマ・チョゴリ姿の生徒もいた。東京だけでなく栃木、茨城など遠方から来た生徒もいた。

 試験といっても筆記試験はなく、面接試験だけであった。試験官は文教局の中学校開校準備をしていた若い職員たちだった。

 面接後、朝連中総文教局の職員が受験生たちをビルの屋上に連れて行き中学校開校の準備状況を説明した。朝鮮語を聞き取れない受験生が多いので日本語で話をした。文教局の職員は「池袋近くの十条にある兵器廠跡で、今は雑草に覆われ廃墟のような所に朝鮮中学校を作る」ことや「学校建設のための資金や用具は足りないがこれ以上遅らせることが出来ないので10月5日に開校式をする」ことを話した。

 職員の話を聞いた受験生たちは「そこがどんなにひどい所であろうとも私たちの中学校が出来るのは嬉しい」と喜びを熱く語り、希望に胸をふくらませた。

 この入学試験では中学の年齢に達していない生徒を除いて全員合格となった。その後開校式の前日までに入学を許可された生徒もおり、それらを合わせると入学希望者数は340人になった。そのうち女子生徒は140名であった。このようにして「在日朝鮮人中等教育の始まり」となる東京朝鮮中学校の開校準備は進んでいった。



 朝鮮中学校の開校(在日朝鮮人中等教育の開始)


 1946年10月5日。

 前日まで降っていた雨がやみ澄んだ秋空が広がった。朝早くから同胞たちと新入生たちは東京十条に向かっていた。何人かの女子生徒は祝祭日に着るようなチマ・チョゴリ姿で集まって来た。入学試験のときはあのように喜んでいた生徒たちだったが、一方で校内は荒れた兵器廠跡のままであり、期待が大きかっただけに失望したような気配も見られた。朝鮮中学校が開校されたとのうわさを聞いた同胞たちもこぞってやって来た。いつの間にかその数は500人をはるかに超えた。

 七千坪の学校の敷地には雑草が繁り日本軍が使っていた壊れた武器が散在していた。敷地の横にある米軍の実弾射撃場(現在運動場横のアパートが建つ場所)で機関銃を撃つ音が間断なく人々の鼓膜を打った。しかし同胞たちと生徒たちはそれも目に入らないかのように喜びに満ちていた。


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 入学式1946.10.5


午前11時

歴史的な開校行事、入学式が開始され「解放の歌」が鳴り響いた。


  解放の歌              해방의 노래

1.朝鮮の大衆よ聞いてみよ     1.조선의 대중들아 들어보아라

 強く鳴り響く解放の日を       우렁차게 들려오는 해방의 날을

 示威者が鳴らす足音と        시위자가 울리는 발굽소리와

 未来を告げる叫び声         미래를 고하는 아우성소리


2労働者と農民は力をふりしぼり  2.로동자와 논민들은 힘을 다하여

 敵に奪われた土地と工場       놈들에게 빼앗겼던 토지와 공장

 正義の手で取り戻せ         정의의 손으로 탈환하여라

 奴らの力など恐れることはない    지놈들의 힘이야 그 무엇이냐


 尹槿校長が挨拶をした後11人の教員、林光徹(歴史)、崔泰鎮(体育)、金斗昌(国語)、柳根悳(社会)、朴燦根(美術)、李殷直(国語),任燦準(理科),李興烈(社会),宋正鉉(英語)、朴俊栄(数学)、金昌徳(美術)が紹介された。

 実は開校式の前日まで校長は決まっていなかったが、当日の朝に朝連中総の尹槿委員長(当時49歳)が臨時校長を兼務することとなった。そして李興烈氏 (当時35歳) が事務主任、朝連中総文教局の職員であった林光徹氏 (当時30歳) が教務主任として発表された。

 解放直後結成された朝連の初代委員長が東京朝鮮中学校の校長を兼任したことは、朝鮮中学校の創立が在日朝鮮人運動や在日民族教育とって如何に重要なことであったかを端的に示すものである。尹槿校長は朝連中総委員長だけでなく、朝鮮中学校が開校した2週間後の10月20日には朝鮮奨学会の理事長も兼任した。この解放直後の状況下で朝連の活動は多忙を極め、尹槿校長が学校にいることはほとんど無かった。

 尹槿校長は植民地時代、ソ連の沿海州新韓村で新聞記者として、朝鮮では教員と中央基督教青年会幹事として活動いた。1930年代に日本に渡ると東京朝鮮基督教青年会総務を務め、日本大学高等師範部で学んだ経歴を持つキリスト教信者でもあった。


 開校式では新入生329名の名前がよばれ、荒川初等学院出身の新入生が次のように決意を述べた。

 「初等学院で朝鮮の文字と言葉を習いました。毎日『朝鮮人、朝鮮人』と蔑まれた日本の学校とは違い、朝鮮の友達と一緒に勉強が出来て嬉しく思います。朝鮮中学校初の新入生として朝鮮の言葉、歴史と文化を学び立派な朝鮮人となり、祖国建設の担い手になれるように一生懸命勉強します。」

 新入生の挨拶に続き朝連板橋支部尹徳昆委員長が挨拶し「東京朝鮮中学校の創立は民族史に残る歴史的な日であります。在日同胞が力を合わせ東京朝鮮中学校を運営して行きましょう。」と訴えた。

 開校式が終わると同胞、教員、朝連の活動家たちも喜びを抑え切れずに「もう大丈夫だ」、「我々の願いがかなった。」と互いに手を取り合った。開校式の準備をしてきた担当者たちは感激と喜びに満ち、彼らの目からは熱い涙がこぼれ落ちた。

11月5日には父兄会を立ち上げた。初代会長には自分の息子を朝鮮中学校に入学させた板橋支部尹徳昆委員長が推薦された。また、11日には建設期成会が解散し学校運営委員会として再出発し孫芳鉉氏がそのまま運営委員長となった。




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    各種学校認可書 1946.11.8





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    定期券発行承認書 1946.11.25



 通学定期券は十条駅と交渉して、開校式の日から購入することができるようにしていたが、10月7日に東京鉄道局に提出した定期券発行申請書は翌月25日に承認された。

 さらに11月8日には各種学校として東京都知事から認可された。

 1946年11月2日付で朝鮮中学校期成会が東京都に送った「東京朝鮮中学校設立申請書」には、設立趣意を次のように記した。

 「教育が人類発展向上に如何に重大かは今さら論ずるまでもなく『歴史はたゆみなく発展する』という鉄則に従って、我が朝鮮も今日、解放国民として輝かしい独立が約束されている。現在母国語を知らない在日同胞たちに国語を教え、朝鮮文化を再建するために全国で初等学院を数多く設立したにもかかわらず、初等教育以上の教育を与える適当な中等教育機関がまったくない状況である。当面の緊急課題である中等教育機関の設置こそが私たちにとって火急の問題である。ここに多くの同胞有志の積極的な援助と鞭撻により、さる10月5日に在留朝鮮同胞子女の教育機関として東京朝鮮中学校を設立した。」


 開校直後の状況


 東京朝鮮中学校は創立された。

 しかし学校とは名ばかりであり、黒板も机もイスもまともに無かった。雨が降れば天井から雨漏りがした。天気がよければ校内の草むらで勉強し、天気が悪ければ教室のコンクリートの床の上で勉強した。

 この時の状況を卒業生たちは当時を回想して次のように語った。

「教室はもともと弾薬倉庫だったところですが、一部がくずれて穴があき雨が降れば雨水が漏れ、天気が良くても風が吹くとほこりが飛んで来ました。窓枠はありましたが窓が無かったのです。しかし.そんなことは大きな問題ではありませんでした。机も教科書も粗末なものでしたがみんなが朝鮮の子供たちで先生も朝鮮の教師でしたし…。  勉強も朝鮮の勉強じゃないですか! 学校が面白くて楽しかった!東京朝鮮中学校は私たち朝鮮学生の真の学び舎でした。」

授業は午前のみであり生徒たちは時間を惜しみながら勉強に励み、放課後は運動場作りや学校の整備などに汗を流した。

この時期国語、歴史、地理の教科書は朝連文教部で編纂したものを使い日本語、英語、数学、理科などは日本の教科書を使用した。

開校式から数日が過ぎて新しい黒板が、その2,3日後には机とイスが教室に運び込まれた。そのたびに、生徒たちは歓声を上げた。彼らはまるで土木工事労働者のように学校を整備するために働いた。日曜日にも生徒たちは学校に来て草を刈り、木の根を掘りおこした。運動場にある山を切り崩しその土で水溜まりを埋めた。生徒たちは自分の手で学校を建設するという喜びにあふれていた。

本校第1期卒業生はその時のことを回想し次のように話した。

「日本の学校に通っていた時祖国解放を迎えた。荒川で初等学院に通い1946年 10月5日に16才で入学した。運動場にはトロッコの線路があり樹木は無造作に茂り、窓のない教室が印象に強く残っている。運動場を整備するため友人と一生懸命労働したことは今でも忘れられない。」

「私の記憶に残る当時の印象は、心おきなく通うことができる自分たちの学校ができた感激とみんながよく泣いたことです。先生もよく泣いたし、私たちも泣きました。」

ある教員は朝鮮地図を黒板に描いて泣き、玄界灘を渡って故郷を離れた話をしながら涙を流した。生徒たちは金日成将軍が率いた抗日遊撃隊の話に感激して涙を流し、李舜臣将軍や沈清伝の話を聞いても涙を流した。



 第二次 入学志望者募集



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 朝鮮中学1期生たち(場所は現在音楽室がある所)
 登山帽は学校が指定した帽子。帽子には1947年当時の学校の徽章をつけていた。写真左の山はその後生徒たちが平らに整備し運動場なった。 

 1946年11月20日、日本を占領した連合国総司令部(GHQ)は「帰国を拒絶し日本に残ることを選択した朝鮮人は、日本の法律に服従する」ことを強要する「朝鮮人の地位および取扱いに関する総司令部発表」を公表した。この「11.20 命令」は日本の法令に従う義務のみを強制するもので、また国際法で保証される外国人の地位と権利を否定する不当なものだった。日本当局は、この「11.20 命令」を根拠に朝鮮学校閉鎖への動きを活発化し始めた。

 このような時期に北朝鮮臨時人民委員会金日成委員長は公開書簡「在日100万同胞に」(1946.12.13)を発表し、在日朝鮮人運動が進むべき道を示した。朝連は公開書簡の内容に沿って1947年1月第9次中央委員会を招集し、長期的になる在日同胞たちの日本滞在を前提に民族教育の方向とそれを実現するための対策を提示した。

 「11.20 命令」が出された混乱の中でも、毎日のように入学志望者が学校を訪れていた。1947年1月に二回目の入学試験を実施し、新たに生徒70人が入学した。

 日本の中学校を1年以上通った生徒と日本の高等小学校 (小学校を卒業して2年間通う学校) を卒業した生徒、そして学力が高い生徒たちで2年生1学級を、残りの生徒たちで1学年を6学級編成された。(続く)

東京朝鮮中高級学校70年史(2)

民族教育の開花への試練

「都立」への強制移管から朝鮮総聯の結成まで


 東京朝鮮中学校の第1回卒業式、また高等部が併設された1948年10月4日の翌日、10月5日に朝鮮民主主義人民共和国の創建と本校創立2周年を祝う運動会が行われた。




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運動会1948.10.5

 ひと月前に創建された共和国の国旗を青い秋空になびかせ、運動会は始まった。多くの同胞たちが初めて見る国旗であった。

 運動会では「金日成将軍の歌」が歌われた。1946年に作られた「金日成将軍の歌」は朝鮮のラジオ放送から採譜し1947年ころから教員、生徒たちが歌うようになっていた。

 1948年12月23日、金日成首相は小舟で東海の荒波を乗り越えピョンヤンに来た「共和国創建在日朝鮮人祝賀団」を接見し、在日朝鮮人運動と民族教育があゆむべき道を示された。

 金日成首相は「在日朝鮮児童たちに朝鮮民族の魂と熱烈に祖国を愛する気持ちをはぐくまなければなりません。彼らに朝鮮の言葉と文字を教え、朝鮮民族としての誇りと自負心を持って自主独立国家の将来を担っていけるように育てなければいけません。そのためには在日朝鮮同胞たちが民族教育をさらに発展させなければなりません。」と語った。

 金日成首相の教えに基づき、本校では1949学年度から朝鮮の教育政策に依拠した「在日本朝鮮人各級学校規定」が朝聯の指導により実施された。



 1949年3月25日、金日成首相の肖像画を掲げ中等部第2回卒業式が行われ、4月の新学期からは全教室に肖像画が掲げられた。

  民族教育は飛躍的に発展した。民族的主体を確立すべき教育が一層強化され学校の姿も見違えるようになった。




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しかし、依然として多くの苦難が立ちはだかっていた。何よりも正規の学校としてはあらゆるものが粗末であった。理科の実験室も、体育の授業に必要な機材も無かった。教科書が準備出来ないまま授業を行っている科目もあった。

 それだけでなく教員たちは多くもない月給が遅れ、その生活も困窮を余儀なくされていた。


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 中等部 第二回卒業式(1949年3月25日)

 このような状況下で1949学年度、新学期を前に新たな問題が持ち上がる。中学3年の卒業生250人中、過半数近い生徒たちが日本の高校に進学することを希望し、高等部に進学の意思を表したのは50人程度にしか満たなかったのである。

 これは朝鮮学校に対する誹謗中傷だけでなく、教育の水準が高くないこと、教育施設などが貧弱なことも要因であった。


 朝聯は教員の再配置を行い教育水準の引き上げを試み、校舎の増改築を学父母や同胞たち、生徒たちで力を合わせ行った。このような努力の結果、中学校の新入生は365人、高等部には115人が入学し、新しく増築された教室で授業を受けることが出来た。1949学年度生徒数は中等部963人、高等部(高1,2学年)176人で全校生数は1139人となった。

 このように教員陣営も強化され、生徒の数も増えていたが、朝鮮学校を取り巻く状況は厳しさを増していた。1949年9月8日、日本政府は連合国総司令部(GHQ)との協議に基づき民族教育の推進母体である朝聯を「団体等規制令」で強制解散させた。




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 朝聯の強制解散5カ月前、1949年4月18日に開催された「4.24教育闘争1周年記念中央大会」では日本政府が朝鮮人学校への教育費支給を法文化し教育費の全額支給を保障すべきとの決議がなされた。大会の決議は衆議院に「朝鮮人学校教育費国庫負担の請願」として提出され5月25日衆議院本会議で「在日朝鮮人子弟に対する教育費支給案」として採択された。しかし民族教育に対するこの画期的な国会決議を内閣は「留保」するとしながら事実上拒絶した。(*この時以来今日までに国庫からの民族教育に対する補助は無い。もし「高校無償化」が朝鮮学校に適用されれば初めて補助金が国庫からの支給されるはずであった。)文部省は6月23日に「朝鮮人学校に対する補助金交付」を拒否する旨を都道府県の知事あてに通達した。(地方自治体の朝鮮学校への教育補助が始まったのは1980年代からである。)


 朝鮮学校が「東京都立」に


 1949年9月8日、朝鮮での戦争に備えていた米国は共和国を支持する在日同胞たちの運動に危機感を覚え日本政府に朝聯と民主青年同盟を強制解散させた。また朝聯幹部や金民化校長を公職追放させた。さらに現在の評価額で推算すると数千億円に達する在日同胞の財産(建物78棟、土地2万6千余坪、預金207万等)を没収する暴挙を敢行したのである。

 10月1日、公職追放された金民化校長の後任として林光澈教務主任が就任した。



 日本政府は朝聯強制解散一カ月後の10月19日「学校閉鎖令」を発令し、「11月4日を期しすべての朝鮮学校を閉鎖する。」という民族教育に対する大弾圧をおこなった。 「学校閉鎖令」はすべての朝鮮人学校を閉鎖し、生徒たちを日本の学校に編入させ、民族教育を抹殺するものであった。

 朝聯が強制解散された状況で朝鮮学校を死守するため同胞たちは多くの困難を余儀なくされた。




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 東京では、朝鮮学校の教員、生徒、学父母をはじめとする多くの同胞たちが学校と民族教育を守るため一丸となり、闘いに身を投じた。「学校閉鎖令」を撤回させるため、教員たちは高校生と中学3年生たちと共に都庁前でデモを行った。都内朝鮮学校の校長、管理組合長など学校関係者たちは度重なる都教育庁の役人たちと交渉を粘り強く行った。

 11月5日には「学校閉鎖令」に反対する大運動会も本校運動場で行われた。


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「東京都立」の看板がかかった校門

 しかし、指導的地位にいた一部の人たちは「朝聯が解散させられたのにどうしようもないではないか」、「朝聯の路線が駄目だというのなら民団の名前を借りればよい」など、戦いを初めから放棄しようとした。

 中でも深刻な問題は民族的自主性を放棄した日本共産党民族対策部の「学校閉鎖令」に対する対処であった。当時、朝聯の活動家の多くが共産党員であった。彼らは「朝鮮学校の経営母体は朝聯なので朝聯が解散された状況では朝鮮学校は閉鎖の道しかない。学校閉鎖になれば子供たちを日本の学校に転校させ、日本の父兄たちと日本の民主化のために共同で戦うべきだ。そして朝鮮の子供が通う学校で特別学級を設け、民族科目を教えるべきだ。」と主張した。在日同胞が多く住む大阪をはじめ多くの地域では朝鮮学校を守れず、生徒たちは日本学校へ転校し、朝鮮学校は日本学校の分校になってしまった。

 しかし、兵庫、愛知、岡山では「学校閉鎖令」を受け入れず、学校に籠城するなど徹底的に闘い続け「自主学校」として朝鮮学校を守り通した。これらの学校は法律的には無認可であったため通学定期券が発行されず教員たちの給料もほとんど滞っていた。彼らは真に献身的に教育活動をおこなった。このような苦しい状況の中で子供たちは民族的素養を着実に育んでいった。


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都立時代の案内看板

 東京では最後まで朝鮮学校を守るため粘り強く戦ったが、「学校閉鎖令」に対処する指導機関も無く、学校を守り維持してゆくことが出来なかった。

 民族教育が存亡の岐路に立った厳しい時期でありながら、次々立ちはだかる民族教育抹殺政策を打ち破るため、同胞たちの熱い民族心を奮い立たせ大衆闘争を指導する人材と組織が無かった。

 東京都は11月18日に「現地調査」を行うなどとしながら「朝鮮学校都立化」の準備を着実に進め、20日には「朝聯学校廃止」を公示、12月17日に「都立朝鮮人学校規則」、12月20日には「朝鮮人学校取扱要綱」を発令した。これは都立という形式で在日朝鮮人が自力で作り上げてきた朝鮮学校の施設をそのまま利用しつつ同化政策を行うというもであり、在日朝鮮人の血と汗の結晶である朝鮮学校の実質的な略奪であった。

 このような状況下で「学校閉鎖令」に断固反対してきた朝鮮学校の教師、生徒たちは「もしも、都立学校になっても私たちは民族の言葉と文化を守っていく」と決意を述べている。




 「4原則」に反対する戦い


 学校閉鎖令が通告された以降も、東京中高では林光澈校長(朝聯強制解散時に公職追放された金民化校長の後任)を中心として学校を守り授業も行っていた。しかし、学校は12月20日都立に強制移管され、安岡富吉校長以下30人の日本人教師たちが配属された。(当時朝鮮中・高校の校長であった林光澈は都立に移行した後も実質的な校長として活動した。生徒たちは都立の時代も「林光澈校長」と呼んだ)

 東京都教育庁は日本の教育法を朝鮮学校に適用すべくいわゆる「4原則」を強要した。その内容は①教育用語は日本語にすること、②朝鮮語、朝鮮史、朝鮮地理など民族科目は課外授業で行うこと、③学校を現存施設以上に拡張しないこと、④朝鮮人教師たちは正課

を担当しないことであった。それだけでは飽きたらず、「朝鮮人は公立学校の教員資格が無い」として学級担任もさせず民族科目だけを課外で教える講師に任命した。これらは民族教育を抹殺し同化教育を行う悪辣な意図をもっていた。

 朝鮮人教員たちはこれに屈することなく民族科目を正課のように教え、学級担任も実質的に受け持った。しかし教育の自主権を奪われたことによって極めて制限された民族教育しか実施することが出来なかった。

 12月23日、学校管理組合が無くなり日本学校のように「PTA」が組織され、尹徳昆管理組合理事長が「PTA」会長に推された。

 1950年4月に新学年度を迎え、都教育庁は再び「4原則」の実施を強要した。しかし、都立になった4カ月の間に日本人教師たちの民族教育に対する意識は大きく変わっていた。


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林光澈校長(中央)とその左 安岡留吉校長

 1月10日、職員会議で朝鮮人教員たちは「日本人教師たちが何のために朝鮮学校に赴任したのか、朝鮮人の子供たちに日本人になるような教育をする気なのか」と日本人教師たちを激しく追及した。

 生徒たちも学校を奪われまいとその怒りを日本人教師にぶつけた。

 その様子が「都立朝鮮人学校の日本人教師」(梶井渉著岩波現代文庫)に次のように描かれている。

 「先ず教室に入って新任の挨拶を一席やろうとした。ところがとんでもないことになった『先生!名前を呼んでください』というするどい憎悪に満ちたことばが教室の到るところからとんで来た。… 急をつかれた私はあわてて名簿を開いてみたが、そこには今までわたしの見たことのない字が並んでいるだけだった。『わたしはこんな字は読めない。私は日本語で授業を教えろといわれて来た』というと、教室の中はざわめき立ち『私たちは朝鮮人だ。朝鮮語を知らないで、何を私たちに学校で教えるというのだ』『日本は今まで私たちの父や母に自分の国の言葉を教えさせたのか、朝鮮語を使うものは牢屋に投げ込んだではないか』『私たちの学校を何故日本の政府はつぶしたがるか聞かせてくれ』等々矢つぎばやに生徒たちはわめきたてたので、わたしは茫然と立ち往生してしまった。」

 また、「ある時前のほうに座っていたセーラー服の女の子が『先生!、私たちは朝鮮人なんです。私たちは日本帝国主義のために言葉も国も奪われたんです。朝鮮人の顔をしていても、朝鮮人の言葉も歴史も知らない片輪にされていたんです!先生、先生に日本語を使ってはいかん、日本語を習ってはいかん、といわれて学校をつぶされ牢屋に投げ込まれたら、先生はおこらないでしょうか』と泣き叫んばかりに訴える切々たる言葉を聞いているうちにいつしか自分の立場になっていた。」

 このような朝鮮人教員や生徒たちの民族教育を守ろうとする熱い熱意に圧倒された一部の日本人教師たちは学校から出て行き、また一部は日本当局のやり方が植民地時代の同化教育であると悟って民族教育に理解を示し、生徒たちの立場に立つ教師たちも現れた。

 教育の自主権を奪われた状況での民族教育は困難を極めた。教育用語は日本語になり日本人教師たちによる授業が行われても、朝鮮人教員たちは使命感に燃え朝鮮語、歴史、地理等の民族科目を教えた。そして何よりも情熱を持って生徒たちを指導した。朝鮮人教員たちは生徒たちから絶大なる支持と信頼を得ていた。



 「2.28事件」、「3.7事件」

 1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。

 東京朝鮮中高等学校の教職員、生徒たちは祖国を守り、統一のために米軍と戦う朝鮮人民軍を心から応援した。

 このような緊迫した状況のなかでも教員、生徒たちは在日同胞たちの力を結集するとともに朝鮮学校に対する日本人の支持を得るため街頭に出てビラを配り、日本の高校を訪ね交流を行った。帝京高校、浦和高校など多くの高校とサッカー、バスケットボールの親善試合などを行った。

 GHQと日本政府はアメリカの朝鮮侵略を反対する日本の民主勢力や在日同胞たちに対する弾圧を強化し、当時在日朝鮮人の唯一の合法的集合体であった朝鮮学校を完全閉鎖に追い込もうとしていた。

 1951年2月28日未明、完全武装した500余名の警察隊と60余名の私服警官が不意に東京朝鮮中高等学校と校内にある寄宿舎を襲撃し、教科書、教材などを押収した。



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 警察は朝鮮学校の生徒が「アメリカは朝鮮から出ていけ!」という反戦ビラを持っていたという事を口実に「学校に秘密印刷所がある」と強制捜索を行った。学校側はこれに抗議して3月7日、生徒と教員、学父母らによる抗議集会を行った。

 王子警察はこの集会が「無許可集会」だとして5、000人の武装警官を動員して学校を包囲、校内に突入した。この日、十条の学校周辺の道路は警察の装甲車や機動隊で蟻一匹這い出る隙間が無いほどであった。

 この日、校内での警察隊の暴行により220名の生徒たちが重軽傷を負った。また11名が公務執行妨害などで不当に逮捕された。

 この事件について、朝鮮人学校の日本人教師梶井渉は前述の「都立朝鮮人学校の日本人教師」では次のように記した。



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 「1951年の2月から3月の上旬にかけて私たちを驚愕させ、そして憤激させた最初の大事件がひき起こされた。

 2月28日の未明警官と警察予備隊数百名が中・高校とその寮に侵入し、さらにそのほとぼりもさめやらぬ3月7日の白昼、今度は武装警官と警察予備隊約3、000名が学校を包囲してその一部は校内になだれ込み、生徒や教師に暴行を加えて多数の負傷者をだしたのである。

 暴行をくわえたとか負傷者を出した、あるいはまたなだれこんだなどと書くと、まず眉唾ものだと考える人も少なくないと思うが、私自身がその被害者の一人だったのだから、はっきりと証言できる。

 いったいどうしてこのようなべらぼうな事件が起こったのであろうか。このことについて、朝教組が3月6日と8日の2回にわたって出したアッピールは次のように書いている。



 『皆さん!

 去る2月28日午前6時半、突如朝鮮人高等学校に武装せる警察予備隊520名、私服刑事60名が押しよせ、教室のガラス窓を破損し、土足で寮内に侵入し個人的な職員の引き出しをかき乱し、一部の警官は酒気を帯び、女子寮においては女子学生をからかうなど、全く学園の神聖をけがすよな行為をしました。

 彼らの口実は一高校生を、彼等が或る場所で拾ったという反戦ビラの所持者だとこじつけ、個人的家宅捜査のためにこの大部隊を動員したというのですが、吾々にはこのような個人的ことがらをその筋の長である教育庁並びに校長に一言の断りも無く、あたかも泥棒の如く子供たちの寝込みを襲い、生徒の教科書、宿題、答案、教材、作品、エンマ帳まで持ち去るごとき不法ぶりには憤激せざるを得ません…』

 また、「3.7事件」については

 『皆さん!

 3月7日の夕刊及び8日の朝刊をにぎわした都立朝鮮人中・高等学校への武装警官隊乱入は、各新聞とも警察当局の態度があまりにも正当かの如く書きたてられていますが、私たちは、この目でこの体ではっきり警察の不当性を体験しました。

 3月7日、朝鮮人中・高等学校では、去る2月28日の事件について父兄の不安を解くためにPTA総会が開かれました。



 ところが9時半ごろから500人余りの警官が父兄達の入場を妨害し始めました。それに憤慨した父兄との間に小ぜりあいが起こり、父兄の中から若干の検束者、負傷者を出すに至りました。それまで授業をうけていた生徒たちはPTA総会を無事終わらせるため校内で警官に抗議しました。この間に警官隊は続々と増しつつありました。父兄会は無事に終了し、父兄達は引き上げてしまったので、事態収拾のため職員会議が開かれ、あらゆる困難を排除して授業を行う事を決めた時、突然警官隊3千名はピストルが1挺なくなったからそれを捜査するという口実の下に校内になだれ込み、生徒に殴るけるの大暴行を加え、授業に誘導しようとした教師にまでも、[教師が何だ、問答無用だ][朝鮮人なんか皆殺しだ]とどなりつけ、背後からこん棒で殴りつけ[帰れ、帰れ!]とどなりつけながら泣き叫ぶ生徒を学校から完全に追い出しました。それだけでなく、負傷者収容にかけつけた自由病院の医師までもなぐりつけられ重傷を負い、その実情を写そうとしてかけつけた日本ニュースのカメラマンは、撮影中にカメラをこわされ、半身不随になる程なぐられました。…』

 私自身も生徒を教室に入れようと職員室から校庭に出たところを、ちょうど正門を突破してなだれ込んできたばかりの警官隊の渦の中に巻き込まれこん棒でこずかれ殴られながら校門の外に放りだされた。そして校門から十条駅の側をとおる大通りに出るまでの約100メートルの道を、両側をビッシリ埋めて並ぶ警官たちの冷笑と蛇のような視線を受けながら歩いた。

 日本のニュースカメラマンが警官になぐり倒されて血みどろになった写真が翌日の『サン写真ニュース』一面に掲載されたけれども、たちまち発売を禁止されてしまった。」



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 「2.28事件」、「3.7事件」について国会法務委員会で行われた質疑応答を参考として以下に抜粋を掲載する。


第010回国会 法務委員会 (委員長 安部 俊吾1951.3.20)

○押谷委員衆院議員(自民党)

 過般の十條の朝鮮人騒動につきまして、その騒乱の実情、特におもなる動機、原因あるいは騒乱の計画性、それから騒乱事件の性格等につきましてひとつお伺いをいたしたいと存ずるものであります。

○田中参考人(警視総監)

 これは朝鮮人中高等学校としては都内唯一の学校でございまして、これは終戰後在日朝鮮学校管理組合の設立にかかるものであります。なお校内の宿舎は三棟ありまして、その收容されている定員は、大体九十名程度であろうと考えております。

 この学校は現在都教育庁の監督のもとにその運営を続けておるのでありまするが、本校の教育方針といたしましては、相当熾烈な政治闘争意識を学校生徒に植えつけているのであります。特に昨年の三月二十日に行われました上野の台東会館の接收の際、その他各種の政治闘争にこれらの高等学校の生徒等が常に参画をいたしまして、実力行使のいわゆる行動隊として、相当第一線において活躍をしておるのであります。さらに最近におきましては、「新朝鮮」あるいは「前進」、「朝鮮女性」等のいわゆる反占領軍的な印刷物を同校において印刷されておるというような容疑も濃くなつて参つて、本庁といたしましてはその視察内偵中であつたのでありますが、たまたま二月二十三日、蒲田署のある巡査が蒲田駅構内におきまして挙動不審の男を発見いたしましたので、この男に対して職務質問を実施いたしましたところが、ただちに国電の中に逃走いたしたのであります。この巡査はただちに国電の中に同時に入りまして、その挙動不審の男に対して職務質問を実施いたしました際に、その男が電車の窓から持つておるふろしき包みを窓外にほうり出したのであります。

 該容疑者をただちに引致いたしまして、蒲田署においていろいろ取調べいたしましたところが、本人は朝鮮人学校に寄宿をしておる学生であるということが判明いたしたのであります。これらの印刷物は御承知のように政令三百二十五号違反に該当する物件でありまして、この男の陳述によりまして、朝鮮人学校内にこうした不穏な印刷物がなお多数存在しておるという事実を突きとめまして、ただちに捜索押収令状をとりまして、これを二月の二十八日に執行いたしまして、同校の寄宿舎、職員室、教室、その他について一斉捜査を実施いたしまして、多数の不穏印刷物を押収いたしたのであります。

 そこでこの一斉捜査を実施いたした翌日は、いわゆる三・一記念日に該当しておりまして、かねてからこの記念日におきまして、相当激甚なる闘争があるということも一応予定されておつたのでありますが、本一斉捜査がありました翌日は、王子警察署に約三百名の生徒が、きのうのあだ討ちだというようなことで押しかけまして、また板橋署、赤羽署にもそれぞれ相当の者がデモをかけて押しかけて参つたのであります。

 また中にはそのときの行動が不当であつたというようなことで抗議をいたしたのであります。その後同校内におきましては、PTA幹部並びに学校職員を中心に連日門をかたくとざしまして、秘密会を開きまして、今後の善後策を十分に協議いたしまして、きわめて不気味な空気が漂つておつたのであります。

 また同日の午前八時ごろ王子警察署付近道路上におきまして、朝鮮人学校生徒がビラを散布いたしまして、午前十時ころから王子朝鮮学校において大会を開くから多数集まれというようなビラを各所に散布いたしたのであります。そこで九時三十分ごろになりますと深川枝川町、世田谷四丁目の各部落、荒川駅等に朝鮮人が相当集結いたしまして、本大会に参加するけはいがきわめて濃厚に見られたのであります。かかる情勢のもとに九時三十分ごろには三々五々朝鮮人学校の正門付近に集まつて参りますので、警察署の措置といたしましては、PTAの連合会長尹徳昆に対しまして無届け集会を中止するように、警察といたしましては警告を発したのであります。

 しかるにこの警告にかかわりませず、十時三十分ころには約三百名の者が校門付近に三々五々集まつて参りまして、当日在校の朝鮮人生徒一千名と合流いたしまして、相当気勢をあげておつたのであります。さらに警戒線を突破いたしまして続々と集結いたしまして、正午ごろには生徒を含む総勢約千七百名くらいに上つたのであります。かかる情勢になりましたので、本庁といたしましては、ただちに予備隊等を動員をいたしまして、まず校門からスクラムを組んでおる朝鮮人の学生等を突破いたしまして、中に入りまして、そうしてこの無届集会を実力をもつて解散をいたしたのであります。

 その際にきわめて、抵抗が熾烈でありまして、木片または石灰あるいは友等にとうがらしをまじえたものを警察官に対して投じ、あるいはその他の器具、器物等を投じましたために、多数警察官が負傷をいたしたのであります。これが單なる学校内におけるPTAの会合とは客観的にだれが見ましても考えられぬことでありまして、従つて警察といたしましては、これは純然たるPTAの会合にあらず、集会であるという見解をとりまして、これが都條例違反といたしまして、集会の解散を命じた次第でございます。


○上村委員(日本共産党公認)

 われわれのところで大体報告、調査によりますと、動員された警官はまあ今おつしやつたような通りですが、その中に私服の警官かたくさんおりまして、酒を非常に飲んでおつた。いわゆる一ぱいきげんになつておつた人が相当おつた。そうして朝早いもんで、女子学生寮に土足で上り込んで、そうして就寝中の女子学生を、ふとんをまくつて、無理やりに起して、そうしてある警察官はその女子学生に対してみだらなひやかしの言葉を相当浴びせかけた、こういうことになつておりますが、そういうことがはたしてお調べになつてございますか。酒を飲んでいたのは事実か、そのときの現場の指揮者並びに責任者の名前はだれかというようなことを一応御説明願いたいと思うのです。

○田中参考人 宿舎を捜査いたしました際には、学校の職員の方々にお立会い願いまして、その上ですべて捜査いたしておりまするので、警察官がさような行為をやつたことは絶対にございません。それからなお警察官としてあるまじき行為をしたようなお話でございまするが、そうしたことは絶対にありません。

○上村委員 次に、先ほど御説明になつた三月七日の朝鮮学校事件のことですが、そのとき動員されてそこへ行つた警察官の数はおおよそどのくらいになつておりますか。 こちらの方の調査によると、どうしても三千名近くおつたというのですが、今総監の説明では非常に少いですが、その点は、少くとも二千五、六百名、三千名くらい動員した事実ではないでしようか。

私どもの方で調査したところによると、警官の中でピストルをなくした者がある、それを探すためにそこへ行つた。ピストルの紛失といことが原因の一つになつているというのですが、先ほどの説明にはそれがないようですが、ピストルをなくしたということは事実でございましようか。

○田中参考人 ニュースを写しておりました捜査二課の者に対しまして朝鮮人が暴行いたしまして、カメラを奪取しようと妨害いたしたので、これを救うべく一、二の警察官が飛び出した際に、蔵前署の小泉巡査部長が單身行きましたために、群衆の中に奪取されまして、打つ、ける、なぐるの暴行を受けまして、遂に彼は人事不省に陷りまして、その際に拳銃を奪取されたのであります。

○上村委員 こういう事実はお調べになつたかどうかお伺いしたいのですが、刑事部の捜査二課の島田領四郎という警部補が、この松本氏の入院されておる病院を訪問しまして、そして松本氏を親しく三時間にわたつて調べた。そしてその文句は、お前さんのその傷は警官がやつたのではない、朝鮮人がやつたのだという意味のことを繰返して言つておるということでございますが、はたしてこういうことがあつたかどうか。あつたとすればそれはだれの命令でそういうことをしたのか。その責任はどうか。それから今総監が、全然警察側でないと言うのであるならば、この島田という警部補がわざわざそんなところへ行つてそんなことを言う必要はないと思うのですが、それらの実相はどういうことになつておりますか。それからもう一点、そのときの松本君などのカメラマンによつて撮影されたところの光景の二ユースですが、このフイルムは上映を禁止されておるということを聞いておりますが、はたしてそういうふうなことになつておるかどうか。その禁止は一体だれが命令したのか。警視庁では関係しておるのかどうか。この点を御説明願いたいと思います。

○田中参考人 ただいまの朝鮮学校のニュースの上映につきましては、上映していいか悪いかということにつきましては、警視庁は全然関係しておりません。これはどういうふうになつているか私は存じません。



 高等部 第1回卒業式


 1951年3月20日、東京朝鮮中高等学校中等部第4回、高等部第1回卒業式が運動場で行われた。卒業式にはたくさんの学父母同胞が集まり、卒業生を心から祝った。

 彼らは卒業生たちは民族教育を修了した初の高校卒業生となった。



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高校1期生(1951.1)



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 「朝鮮学校閉鎖令」によって危機を迎えた朝鮮学校を立て直すためには子供たちを集め教員たちを養成しなければならなかった。しかし教員を養成する師範科も無かった。

 朝鮮戦争の最中、林光澈校長は1期生たちを集め次のように訴えた。「今、祖国では共和国の青年たちが命をかけて戦っている。兵庫では『4.24教育闘争』後も自主学校として学校を守るため苦しい戦いを余儀なくされている。とくに給料も滞るなど厳しい状況の中であるが民族教育を守りぬく強い意志を持った教員が至急に要求されている。親戚も友達もいない見知らぬ土地であるが学業を中断して、兵庫の朝鮮学校にいってもらいたい」

 自主学校として民族教育を守っていた兵庫県内の朝鮮学校に高校三年生8人(姜明元、金萬敬、金鐘斗、朴鐘相、宋相浩、鄭戴鯨、崔峯澤、安琪植)が在学中にも拘わらず赴任した。

 1950年10月30日、午後7時半、兵庫県の朝鮮学校に向かう8人の「高校生教師」を見送るために全校生1500人が東京駅に集まった。吹奏楽隊が「金日成将軍の歌」、「校歌」などを演奏し8人の「高校生教師」を激励した。

 一期生はその後6人が朝鮮学校の教員になり、卒業生43人中14人が朝鮮学校の教員として民族教育の試練の時期に青春を捧げたのであった。




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在学中に兵庫県の朝鮮学校に赴任した8人

 これ以降、高校卒業生たちは60年代末まで日本各地の朝鮮学校に配属され民族教育の発展に大きく寄与した。全国の朝鮮学校に東京朝鮮高校の卒業生たちの青春と血と汗の跡が刻まれていない学校はないのではないか。

 当時、在日民族教育の最高学府は東京朝鮮高校であった。まだ朝鮮大学校は創立されておらず、朝鮮高校の卒業生たちは使命感に燃え、教員として在日朝鮮人運動の第一線に、日本各地の朝鮮学校に赴いたのである。




 壁新聞「白頭山」



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壁新聞「白頭山」

 壁新聞「白頭山」は学生自治会の機関誌であった。当時校内には現在の「朝鮮青年同盟(朝青)」など青年たちの組織が無かった。朝鮮中学に高等部が併設された1948年、学生自治会は生徒たちの親睦を深め、祖国朝鮮の建設の担い手になる活動を活発に行うため組織された。学生自治会の初代会長は一期生の金共浩が選挙により選ばれた。壁新聞「白頭山」は当時朝鮮中・高校の名物であり校内外の新鮮なニュース、祖国の情勢、在日運動などの記事も掲載した。自治会のメンバーたちは掲載する記事を決め夜から朝まで大きな模造紙に記事を筆で何枚も書き掲示板に貼り付ける大変な作業を行った。朝、登校したほとんど生徒たちは「白頭山」をのぞいて教室に向かった。話題性のある記事は生徒たちが鈴なりになって読むのであった。「白頭山」は夏休み、春休みなどの休日にも貼り出された。「白頭山」は学生自治会の活動、スポーツや芸術活動での成果などもたくさん掲載した。とくに高校5期生の金漢文が担当した「白頭山」時代は生徒たちに大きな影響を与えたと伝えられている。

 「白頭山」制作メンバーは徹夜を繰り返しながら記事を書き、生徒たちの祖国に対する愛情を育て、祖国の発展と統一のため朝鮮青年たちが進むべき正しい生き方について考えさせるにあたり多大な役割を果たした。


 「文工隊」と演劇「戦乱の中で」

 1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。当時、在日同胞たちに戦争の真相を知らせ朝鮮人民軍が必ずアメリカを打ち破るとの信念をはぐくむことは緊急な課題であった。

 東京朝鮮高校ではこのような時代の要請を受け、朝鮮語の教員であった南時雨の指導の下、「文工隊(文化工作隊)」が組織された。

1951年1月~2月、「文工隊」は演劇3幕6景「戦乱の中で」と歌と舞踊などを準備し浜松、豊橋、名古屋などで一カ月間地方公演を行った。

 朝聯が強制解散された後「民戦」が組織されてはいたが同胞組織が無くなってしまったと思っていた同胞たちは東京朝鮮高校「文工隊」の演劇を見て涙を流し歓喜した。




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演劇「戦乱の中で」の出演者と南時雨教員(前列右端)

 名古屋での公演の時であった。演劇の一場面に南進する朝鮮人民軍が村を解放し悪辣な地主を懲罰する場面があった。その時、それを見ていた同胞たちは歓声をあげるだけでなく、演技者である生徒たちと共に舞台で地主を懲らしめるということまで起きた。

 「文工隊」のフィナーレで歌と踊りが繰り広げられると場内にいる同胞たちはみなが踊りだした。朝鮮学校の生徒たちの頼もしく立派な姿に感動し、同胞社会は健在していると確信した。場内は感激と興奮のるつぼと化した。

 南時雨教員は脚本を書き、生徒たちに台詞を覚える方法、演技をするときの心構えなど演劇「戦乱の中で」の指導を情熱的に行い観覧した同胞たちに勇気と希望を与えた。

 演劇「戦乱の中で」には楊柄榮、金黄榮、李日姫、尹榮子、李徳鎬ら24人が出演した。


 東京都教育庁が「6項目」強要


 1952年9月、サンフランシスコ条約が発効し日本政府は日本に居住する朝鮮人は日本国籍を喪失すると通告した。27日東京都教育長は「朝鮮人子弟の公立学校への就学について」を通達し、外国人である在日朝鮮人は義務教育を受ける権利がないとした。

 これは朝鮮学校をなくすだけでなく日本の学校に通う朝鮮人も学校からしめだすという重大な民族差別であった。

 1953年2月、文部省局長は「朝鮮人子弟には義務教育権が無い」と重ねて通達した。

 学校は「都立」であったが53年度、中学565人高校281人が入学し生徒数が400人ほど増加した。しかし入学式が終わった後にも400人分の机とイスが無い状態が続いた。


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中学第5回、高等学校第3回卒業式(1953.3.20)

 10月20日、東京都内の朝鮮人学校連合運動会が墨田区錦糸公園で盛大に行われた。その翌日、新聞は「朝鮮学校の運動会の仮装行列で天皇を冒瀆し反日色が濃い運動会」と誹謗記事を載せ、読売新聞は10回にわたり大々的なキャンペーンをはった。「赤い朝鮮人学校」、「校舎はキチガイ病院」、「運動場は軍事訓練場」などと中傷、ねつ造記事を掲載し朝鮮学校攻撃を行った。また、週刊読売はトップ記事で神奈川県横須賀市立小学校の分校(朝鮮学校)で「朝鮮人学校リンチ事件」とセンセーショナルに報道した。これは小学6年生の音楽の時間、子供たちの態度が良くないので日本人女教師が「あなたがた朝鮮にお帰り遊ばせ」との一言で授業が出来なくなり大騒ぎになったことの投書を記事にしたものである。

 これらのねつ造された報道は日本人の多くが持っていた朝鮮人に対する蔑視、差別意識を利用し朝鮮学校を閉鎖させるべきとの社会的雰囲気をつくりあげていた。

 12月、このような雰囲気の中で大達文部大臣は朝鮮人子弟の集団教育(朝鮮人学校)は認められないとの談話を発表した。

 12月8日、文部大臣の意向を受けた東京都教育委員長は都立朝鮮人学校PTA連合会の代表を教育委員会に呼び次のような「6項目」を強要した。

 ①イデオロギー教育をするな ②民族科目は課外に行え ③定員制を守れ ④生徒の集団陳情を止めよ ⑤未採用教師を教壇に立たせるな ⑥教職員以外の者を教職員会に入れるな

 1954年3月には「6項目」を受け入れなければ朝鮮学校を廃校すると脅迫した。

 それだけでなく文部省の検定を受けない教科書を使用してはならないなどの30項目にわたる細則を強要した。

 都教育委員会は4月5日に予定されていた新年度の開校を無期延期し「廃校か6項目受諾か」の選択を4月9日午後5時までするように朝鮮人学校長あてに通告した。

 4月9日の様子を「都立朝鮮人学校の日本人教師」(岩波現代文庫)は次のように書いている。

 「4月9日の午後には、警視庁傘下の警察予備隊は都庁の周辺に待機し、装甲車は教育庁舎の前をうずめた。PTA代表が教育庁内へ入るためにも、充満した武装警察官をかき分けねばならなかった。…PTA側のすべての発言に対し教育委員会長は時計を見ながら、とにかくイエスかノーだけを聞かせてもらいたい。…」

 朝鮮学校側は「6項目」を受諾する苦渋の選択をせざるを得なかった。

 1954年度の新学期がスタートしたが、東京都教育委員会は一方的に定めた「定員数」を超過したとして新入生全員の入学を認めず、武装警察隊を動員し入学式を妨害した。

 そして、教育委員会は朝鮮学校に通達を送った。通達の一部は以下のようになっている。

 ・「吾吾は朝鮮民主主義人民共和国を守護防衛し、在日朝鮮人青少年を祖国に忠誠なる子弟に育成する」等の教育目標を掲げたり、校舎の内外及び諸行事の場合、北鮮旗を掲揚したり、金日成の写真、図画等等を掲げるなど特定のイデオロギー又は政治思想に偏したと認められる教育はしないこと。

 ・校長以外のものを「我等の校長」などというような呼称は一切させないこと。


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同窓会機関誌「突撃隊」(1953.4.30)

 ・校内の掲示板は原則として日本語を用い、朝鮮語を使うときには学校長にその訳文を提出させ許可を受けさせること。

 ・児童生徒の自治会等は、必ず教員の指導によるものとし、用語は原則として日本語とすること。

 ・学校新聞会、学級新聞、自治会機関誌等学校で発行パンフレット類は、その都度学校長の許可を受けさせる。

 この時期、生徒たちは自治会活動を活発に行い、勉学だけでなく新朝鮮建設の担い手になる決意を胸に学校生活を送っていた。

 高等部3期生は卒業の一カ月後に発行した同窓会機関誌「突撃隊(돌격대)」(1953.4.30)に同窓会規約を定め卒業生たちの活動を以下のように紹介した。

 「同窓会規約」で同窓会の目的を

1.我が3期卒業生は6年間の民族教育の成果を発揮し条件如何を問わず朝鮮民主主義人民共和国と在日60万同胞のためのあらゆる運動に献身的に参加し同胞大衆に服務する。

2.我が3期生は民族を裏切らず、母校に泥を塗り友達を裏切る行為を行わない。とした。

 また同窓会の地方責任者を関東及び滋賀は金達龍、関西地方は金竜洙、中国地方は車漢基、九州は権淳徽とした。3期卒業生は69人中36人が朝鮮学校の教員になり、5人が組織の活動家に、16人が進学した。3期生の卒業後の任地によって同窓会の地方責任者は決められた。

 機関誌の「主張」には「我々は共和国公民として育ててくれた多くの先生の教えを忘れずに、より祖国のため、金日成元帥に忠実であろうとの先生たちとかわした誓いが私たちを鼓舞激励している。」と書かれた。

 広島の朝鮮学校に配属されたある卒業生は「私は小学2年生と6年生の2部授業と中学の理数科を教えながら元気に過ごしている。ここに来る前はいろいろ苦労すると覚悟して来たが経済的には大変ひどい状態だ。そんな中でも先生たちは団結しているし私は自分の体を祖国に捧げる強い決意を持って生活している。前途には多くの困難があるだろうが私は最後まで生徒たちと一緒に朝鮮学校を守っていく。」と決意をのべた。西神戸の朝鮮学校に配属された卒業生は「学校で聞いた時は地方で苦労するという話も『英雄的』な事のように思われ、その姿や行動も想像することしか出来ませんでした。しかし、実際には3畳の部屋に4人が生活し1日に2食を食べるだけ、知り合いもいない客地では勉強どころではなく、精神的にも余裕が無く手紙を書く時間もありません。しかし男が心に決めたからには絶対に人に後ろ指をさされないように、全力を尽くそうと仕事をしています。ここに来て2週間しかたっていませんが、もう1年間も過ぎたように思えます。

 朝礼が始まろうとしています。子供たちが運動場に出て先生たちが出てくるのを待ちながら騒いでいます。」と民族教育の現場で悪戦苦闘する姿を伝えている。

 (このように朝鮮高校の卒業生たちは民族教育を守るため、自分の意思で日本各地の朝鮮学校に教員として赴いた。その後1961年に師範科が新設され、71年まで多くの卒業生たちが卒業後の進路に教員を選んだ。)



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共和国 各種大学、技術専門学校一覧(1954.11.16)

 だが、この時期、卒業生たちや、同胞たちの血のにじむような戦いにも拘わらず在日朝鮮人運動と民族教育は日本政府当局の繰り返される弾圧と「民戦」組織の誤った路線と指導によって大きな打撃を受けた。

 多くの地方で同胞組織は有名無実になり朝鮮学校が無くなっていった。多くの子供たちが朝鮮学校をはなれ、日本の学校へ通う事態が起きていた。

 同胞たちの必死のたたかいによって学校を守り、維持している地方でも連日警察の襲撃を受けていた。同胞たちの生活難により先生たちの給料も払えず学校の運営は窮地に陥っていた。

 この当時、朝鮮大学校が無かったので祖国の大学に進学を希望する高校生たちも少なくなかった。一部の生徒は香港を経由するなどして朝鮮に帰国し、祖国の大学に進学する者もいた。当時、学校内にあった「民族教育研究会」は朝鮮での進学を希望する生徒たちの便宜を図るため「朝鮮民主主義人民共和国各種大学、技術学校一覧」を配布したりした。

 6期生たちは「祖国進学入学試験」を実施し合格者の発表もした。この生徒の一人、金尚玉は1956年、香港経由で朝鮮に帰国し、金日成総合大学物理学部を卒業した。卒業後金日成総合大学で教鞭をとりながら30冊の参考書、40件の論文を執筆し、「魚群探知機」を性能を各段に向上させ、「セラミックス」製作技術を世界水準に押し上げた。1990年にジュネーブで開催された第18回国際発明及び新技術展覧会で金賞を授与された。金尚玉教授は「共和国労働英雄」、「人民科学者」、「共和国院士」(朝鮮で学術研究者の最高の称号)の栄誉を授かり現在(2016.10)も金日成総合大学で教鞭をとっている。


 サッカー部が大活躍


 「都立高校」であった厳しく複雑な状況で東京朝鮮高校サッカー部は1954年度全国高等学校サッカー選手権大会で初参加ながら全国3位と大活躍した。

 この当時の活躍を「東京朝鮮中高級学校10年史」(1956.10.5)は次のように記している。

 「朝鮮中高級学校のサッカー部の創設はその土台が学校創立の時からあったといってもよい。それは本来、朝鮮人がサッカーが好きなので『部』としては組織されていなかったがサッカーが好きな生徒たちが運動場でボールを蹴っていた。そんな中である時には日本の学校とも試合をしたしサッカー大会で優秀な成績を収めたこともあった。このようにサッサー部が誕生する土台は初めからあったが正式な部をつくるには至っていなかった。1954年4月に許宗萬、禹永玉、元龍延、李成雨等で新しい運動部として出発した。金世炯先生を監督、高仲先生(都立高校時代の日本人教師)を部長とした。部といってもサッカーボールも無くユニホームも無い貧弱な部であったが日本学校との試合ではいつも優秀な成績を収めていた。

 当時の部員は3年生禹永玉、李成雨、元龍淵、許宗萬、呉正煥、2年生姜準模、金柄哲、李東揆、金尚玉、朴淑男、1年生金明植、卞鐘律とどうにかチームとして成り立つ部員数でしかなかった。



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東日本選手権大会で3位 右端金世炯監督

 その年の6月、金世炯先生の尽力により日本高等学校サッカー協会に加入することが出来公式戦に出場する道が開けた。

 1954年7月下旬に行われた東日本高等学校選手権大会に出場したサッカー部は朝鮮人の誇りを胸に抱き全校生の応援を受け無事初戦を突破した。2回戦は優勝候補である甲府一高に3対0で勝った。この時になってようやくサッカー協会は朝鮮高校が強いことを知り関心を寄せた。

 その後もサッカー部は準々決勝まで勝ち進み準決勝で宇都宮高校と対戦した。延長戦までもつれ込んだが勝敗が決まらず、残念にも抽選で負けてしまい悔しい思いをした。

 結局宇都宮高校が優勝し、本校は3位決定戦で教育大付属高校に3対1で勝利した。この大会で朝鮮高校チームの紳士的で若者らしいプレーや行いは同胞はもちろん日本の観衆たちにも深い感銘を与え、共和国の青年の栄誉を遺憾なく発揮した。

 1954年度全国高等学校サッカー選手権大会が大阪西宮競技場で行われ、本校は東京代表として出場した。

 その時、サッカー部はただの朝鮮学校の代表だけでなく朝鮮民主主義人民共和国代表として参加する気構えでいた。

1回戦は島原高校と対戦し2対1で勝利、2回戦の東北代表の対育英高校戦では1対0で勝利するも、準決勝の浦和高校戦は0対7と完敗を喫した。




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第33回全国高校サッカー選手権大会で3位

 しかしサッカー部が創部されて1年もたたずに東京代表として全国大会に参加し準決勝まで進出することが出来たのは選手たちに朝鮮人としての自負心があったからである。

 後日、当時の選手に話を聞くと関西地方の同胞たちの応援に対する対応、差し入れ等で多くの選手たちが体調を崩してしまいベストな状態で試合が出来なかったと反省していたという。

 この時活躍した選手たちは卒業後、在日同胞社会発展に大きく寄与した。許宗萬、李成雨は総聯の議長、副議長に元龍淵、李東揆は朝鮮に帰国しサッカー朝鮮代表にアドバイスをした。李東揆はサッカーテレビの解説者として人気が高かく、昨年(2015.12)死去したが朝鮮でも社会に大きな貢献をした人物だけが葬られる「愛国烈士陵」に埋葬された。金明植は日本代表チームと試合をしてもひけをとらなかった在日朝鮮蹴球団の主将として大活躍した。金明植は東京朝鮮高校のサッカー部監督として15年間生徒を指導し、1972年にはサッカー部の生徒を引率し金日成主席の接見を受けた。


 「東京都立」からの脱却、民族教育の一大昂揚期への土台が確立


 「都立」という厳しい状況の下、東京朝鮮高校の卒業生たちは生活上の何の保証もない中で祖国を守り、同胞社会と民族教育のために悪戦苦闘し深刻な苦しみに耐えていた。

 まさにこの苦難の時期、金日成首相は在日朝鮮人運動で主体性を確立するよう在日同胞たちの進むべき道を示された。韓徳銖議長をはじめとする中核的な活動家たちは在日朝鮮人運動で主体性を確立し祖国の統一と民主主義的民族権利を擁護する運動に路線を転換するため、総聯結成の準備を行った。運動転換の理論構築のメンバーには韓徳銖議長をはじめ李心喆、金秉昭、李珍珪、そして当時の朝鮮中高等学校の校長であった林光澈がいた。




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1955年建設の校舎

 総聯結成を準備していた活動家たちの精力的な活動により1955年3月30日、東京都内の朝鮮学校は「東京都立」を脱却し、自主学校である東京朝鮮中高級学校として再出発した。

 東京朝鮮第3小学校で教員をしていた鄭求一はこの当時を次のように回想した。

 「東京朝鮮第3初等学校も12月20日、都立学校として発足した。東京都立朝鮮第3小学校に看板が変わった。校長や担任教師が日朝で2人ずつ、卒業証書も2通りというありさまだった。

 都立の初期、私たちは、不当な制度だといって反対もし、ビラを刷るなどして闘った。子供たちも『日本人先生嫌だ』といって、日本人教師による授業を拒否したこともあった。日本の教師たちも矛盾を感じていた。また、なぜ日本の公僕を使って、在日朝鮮人の教育をしなければならないのかという意見も政府要員の中にあったのも事実である。

 在日本朝鮮人総聯合会(総聯)結成準備過程で、都立存続か、私立移管かの論争が繰り広げられた。東京中高等学校の会議室で、私立移管を力説していた李心喆氏が印象深かった。

 結局、私立移管、自主的な学校運営の正しい方向に決まった。そうして、54年3月「都立制度」は廃止され、私立移管の自主的運営に変わり、民族教育における主体性を取り戻すことができたのである。」(朝鮮新報「民族教育に捧げた半生」2004.4.17)

 これに先立つ3月3日、東京朝鮮学園崔容根理事長は「東京朝鮮中高級学校設置認可申請書」を東京都に提出した。

 学校設置趣意は次のように書かれた。

 「本校は終戦直後、東京都内在留朝鮮同胞たちがその子弟たちに民族的素養を身に着けさせようとの熱望により自主的に設置され、1948年東京朝鮮中高等学校として私立学校の認可を受けた。だが1949年10月改組通告により学校の存続が不可能になり1949年12月東京都立朝鮮人中高等学校として発足した。しかし1955年3月に都立を廃止するとの東京都教育委員会の通告により、朝鮮人子弟の教育に重大な支障をきたされたので子弟教育の円満な発展のため学校法人東京朝鮮学園を設立し、この法人の運営によりこの学校を東京朝鮮中高級学校として各種学校の設置認可申請を行う」

 3月23日に「学校法人東京朝鮮学園」の認可を受け、都内の朝鮮学校は朝鮮学園を運営母体とする各種学校として再出発した。

 1955年4月1日、東京朝鮮中高級学校で入学式が行われた。中級部新入生507人、高級部新入生360人が入学し学生総数は2236人に達した。

 4月20日には学父兄定期総会が行われ、新しい教育会の会長に呉任化、副会長に金尚起、黄錫周が選ばれ、常任理事、理事等40人で教育会理事会が構成された。

 呉任化会長は前尹徳昆会長を次いで1954年から教育会の2代目の会長を務めていた。呉任化会長は愛国的商工人として在日朝鮮人運動発展にに多大な寄与をしていた愛国者であった。共和国最高人民会議が1954年に祖国統一実現を呼びかけるアピールを在日同胞140人に送ったが、その一人が呉任化会長であった。

 金尚起副会長は当時教育図書出版社「学友書房」の社長であり、祖国解放直後から夫人の朴静賢(女性同盟中央委員長)と共に民族教育をはじめとする愛国事業に大きな貢献をした活動家であった。黄錫周は呉任化会長を次いで3代目の会長に就任しその後東京朝鮮学園の理事長として活動した。


 1955年5月25日、朝鮮総聯が結成された。これにより在日朝鮮人運動は民戦のような日本共産党の指導に基づく日本の民主化のための運動でなく、在日朝鮮人の権利擁護と祖国統一に寄与する大衆組織として大きな一歩を踏み出した。

 総聯が結成される前には教員や活動家としての配置任命を代々木の共産党本部で行っていたのである。

 総聯結成大会で採択された8大綱領の第4項は「われわれは、在日朝鮮同胞子弟に母国の言葉と文字で民主民族教育を実施し…民族文化の発展のため努力する」と規定した。

 また学校教育を強化するため、学校建設が可能な地域から建設事業を促進し、その条件を醸成していくこと、既成の自主学校は学校認可手続きを広範な日本人の支持を得て積極的に推進し、学校施設を整備し、日本学校に在学している朝鮮人生徒児童を朝鮮学校に受け入れるように提起した。

 こうして朝鮮総聯の結成により民族教育は一大昂揚期を迎える。